【駄文】20世紀を知らない正義が患っている潔癖症

将来きっと創作の種になると思ったので、今の感覚を書きます。
今回の出来事について正誤や詰めの甘さを議論する目的で記したものではありませんので、私はここに寄せられたいかなる意見にもお返事を寄せるつもりはありません。

 

~あらすじ~
過去の作品が糾弾されたクリエイターが、1998年に作ったコント内で問題のある表現をしていたとして、社会的に非難を浴び、一大スポーツイベントから降ろされるまでになりました。
本日は開会式ですね。イベント自体は滞りなく進みますように。
~あらすじ終わり~

 

色んな意見が飛ぶ中、私の周囲で多かったのは、

「過去に悪いことをした人なんていないのに、今更20年前のことで糾弾するのってどうなの?」

「これ、全編見たら問題視されてるテーマはコント内でも『そんなことやっちゃいかん』って否定されてるじゃん。切り抜き方がひどい」

「2000年には既に『誰も傷付けない笑い』を探求して舵を切っている人。改心した人を今更どうして?」

「今まで人を傷付けるコントをしたことのない者だけがゴリンの演出を担当しなさい」

といった具合でした。聖書の中身を当たり前のように知っている人ばかりで純粋な教養の高さが恐ろしいですね。

なんというか、冷静というか。
クリエイターさんが私の周囲で人気があったのもあるのだと思います。どんな作品を創る人なのか、見てる人はちゃんと見てた。
私も動画サイトで流し見したり、気になる舞台の円盤を1枚だけ買ってみたりした程度ですが、この方の作品は好きです。
不快感の少ない笑いが、未だ井戸端会議が強く香るバラエティ番組とは全然違う。

そんな具合なので、今回の燃焼は作られてるなと、皆さんと同じく私も即座にわかってしまった立場です。

 

ですが、当然この作られた燃焼に油を注いだ人もいます。

槍玉に上がった材料もセンシティブで悪かった。字面がとても強烈ですから、正直初見でニュース記事のタイトルを見れば、ギョッとする方のが多いでしょう。

「事実は事実、これはいかなる事情や背景があれど許されてはならないこと」

「題材に上げたこと自体がダメ」

「自国の悲劇に言葉を置き換えてごらん。絶対ダメだってわかるよね」

といったご意見もまあちらほらあるそうです。
どこまでが人口燃料なのかは私にはわかりません。

全てのゴシップニュースについて、どこまでが真実なのかなんて外野にはわかんないです。でも今回のことは、少しだけ想像力のある人なら、「おかしくない?」と言うことのできるあらすじだったとは思うんです。
そこがあるから寂しくはありますね。

 

さて、ここから書き留めたかった本題に絡んでいきます。

 

20世紀を知らない正義が患っている潔癖症について。

最近のお笑いタレントを見ても、私と同年代以上の方は気付いているかと思います。
お笑いが人を傷付けなくなった。
先のあらすじに上がった方もそうですし、全肯定ツッコミなんてものも流行した。逆に人をコケ落とす笑いは段々すたれてきていて、嫌われたりもする。ゴリンでも別件で人の容姿をバカにする演出が計画されていたと非難されました。

多くの人が、誰かを蔑むのをやめようとしている。
誰かを踏み台にした笑顔は、古い。

この動きって結構急速だったと思うんです。
平成の後ろの方でそういう声が広まり始めたのだと思う。
完全な推測では、SNSとかの広まりが大きかったのかな。誰かが発した「こういう笑い嫌い」と言う声に、実は私も、実は自分もと。そんな空気の結束が一因としてはあるのかもしれない。

平成の後ろの方といったら、ほんとに2010年代です。
私がまだ学校に通っていた時分から、人を傷つける笑いを嫌う声は耳に入っていました。あんまり詳しく年代は書きませんが、個人的に深夜アニメに手を染め始めた頃にはそれとなく聞こえていました。

2010年代。

2010年生まれはもう10歳超えてる。

取り巻く文化が人格形成に大きく影響を与えるのって、10~20歳ごろのことですかね。よく知りませんが。

2010年代に10~20歳だった人は、2000年あたりの生まれ。その人は今、20代前半。

 

この年代周辺から、下手したら正義のネイティブなのではないでしょうか。

 

意識の洗練具合は、本当にここ数年~十数年で目に見えて変わった。と思う。
ジェンダーとか、国籍とか、容姿とか、貧富とか。正直言って良いことです。これには私もニッコリな事例もてんこもり。

この辺り、変わった、ということを身をもって知っているのは、前後を生きた人だけです。
前後を知る人と、物心ついた時には社会の意識改善が進んでいた人とでは、正義の潔癖度合いが当然違う。

ジェネレーションギャップってやつですね。

前後を知る人は、「●●はしてはいけないことになった」という意識。
後しか知らない人は、気付いた時には「●●はしてはいけない」というのが当たり前。

これが一つのことならまだ良いですが、本当に、ここ数年~数十年でたくさん変わった。多角的に色んな事が綺麗になっていった。
もちろんまだまだだろうけど、私達は洗練されれば当然次の不服に目を付ける。いつまでたっても人間は充足を得ることはない。私の好きな明治の作家もそう言っていました。
人は向上と羨望をやめられない。

 

では、正義は一体どこまでいくんでしょうか。

段々、少しずつ、気のせいであるかもしれませんが……私達は「潔癖的に正義でなければならない」と変わってきているのではないでしょうか。

人に優しくせねばならない。
人を差別してはならない。
疲労を溜めすぎてはならない。
これらは人の抱く正義のためである。

人は、正義でなければならない。

 

これがうねる大衆の声を作り上げて、今般の武力に転換されつつあるのだとしたら、窮屈なことだと思う。

 

今回あった人口燃焼のことに戻ります。
20世紀のコンプライアンスなんてそりゃもうひどいものです。
そのことを知っているか否かがまず、この度リテラシーとして要求された。

更に突っ込んだ情報として、2000年には、渦中の人は「誰も傷付けない笑いを」と舵を切っていた。周りの大勢はそんなこと考えてない中で。

段々当たり前になってきた21世紀の「誰も傷付けない笑い」とは、希少度合いが違う。

不適切な表現のある作品を生み出したのは事実でしょう。ですが、その時の言葉一つに、世界が綺麗になるより前の決意を上塗りする力があっても、それは許されるんでしょうか。
過去のマイナスを引き合いに出すなら、プラスも出されていいと思うんです。

マイナスには気付けても、プラスに気付けなかった人もいる。
21世紀に進んだ正義の目が、高みを目指す潔癖の心が、結果として人を深く傷付けていく。そうして時に人を殺す。

 

 

我々はどこまで正義に潔癖になるんでしょうか。
生まれた時から「こうすべき」となっていた、という範囲は、意識のアップデートと共に拡大していきます。
今の学生さん達は、人を傷付ける笑いも、ジェンダー的なからかいも、肌色の違いを指さすことも、悪として認識されているのかもしれない。そこは正直、そうであってほしい。

ただ、それを鋭利に突き詰めすぎたら、今度はタブーを踏んだ人間が「蔑まれて良い人間」になりはしないか。

少しだけひどい言葉で書きます。

 

悪口を言うヤツなんか死んでもいい。
一度でも人を傷付けた者が改心したところで尊厳など認めてはならない。

 

どこか、そうなってきているんじゃないか。

 

誰の正義が一番貴いのか。そんなことを思います。
この感覚はちょっと創作に使えそうなのでしたためました。
いずれ世界観の構成時自分で参考にするかもしれません。

最後に。
この記事内容に、信条ゆえに反対のご意見が寄せられても、私はお返事しません。